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『ノルウェイの森』 そして 小山鉄郎氏の鋭い指摘
ノルウェイの森からです。
文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。
上巻18ページ
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
同46〜47ページ
(中略)死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。
「この曲を聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」
同198ページ
(中略)「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。」
「私たちがまともな点は」(中略)「自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」
下巻4ページ
世の中にそういう人っているのよ。素晴らしい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力ができないで、才能を細かくまきちらして終わってしまう人たちがね。
同10ページ
もちろん人生に対して恐怖を感じることはある。
同99ページ
(中略)ただ俺はそういうのを前提条件としては認めない。
自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでやる。
(中略)駄目だったら駄目になったところでまた考える。
不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある。
「あれは努力じゃなくてただの労働だ」(中略)
同100ページ
「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」
それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思い出さずにいたのだ。
同116ページ
「自分に同情するな」(中略)「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」
同167ページ
(前略)『蛍』という短編小説が軸となっている。(中略)たぶんこの小説は僕が思っていた以上に書かれることを求めていたのだと思う。
あとがきより
『文学界 2019年12月号』 村上春樹・作家生活40周年より
文学界の特集を読んでいて、小山鉄郎さんの寄稿が面白かったので紹介します。
作品の回想シーンで、次の表現があります。
それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ」
このブーメランという部分、作家の思想を反映しているとの指摘です。
文学界から抜粋すると、「村上春樹は、相手に問う問題を『舵の曲がったボートみたいに』『ブーメランのように』『ワープして』自分の問題として、同時に考えていく作家として登場してきました。そんな認識を明確に持って出発した作家が、村上春樹なのだと思います。』(37ページ)
なるほど、と思いました。
作品を読むと同じ所に戻ってくるような錯覚を覚える時があります。
ただ、まったく同じではなく、自分の中でステージが上がっているように感じるようになりました。
最後に作品の主題ともなった、ビートルズの「ノルウェイの森」について。
「自分が深い森の中で迷っているような気」は、感じられますでしょうか?
寂しさ、あるいは、「誰も助けに来てくれなくて」という感想を持たれるかもしれません。
でも、「そんなことはないよ!」と「僕」は繰り返し伝えていると思います。