小説『取り替え子』から
モノの整理で、一番避けるべきは、モノを観察し、思い出にふけること。どこかで聞いたこの言い回しは、古本の整理には間違いなく当てはまります(苦笑)。ラクマの出品整理をしていたところ、大江健三郎の小説が意外と手元に多いことに気がつき、ついつい手が伸びて、読み始めたら止まらない結果に。。
大江氏の小説は、正直、読みにくいイメージが強く、そして読み始めた今もそのイメージに変わりはないものの(笑)、読みにくさの中にも、一筋の微かな曲がりくねった光のようなものが通っているようで、それを時々見失いながらも追いかけていく、あるいは気がつけば追いかけられている、楽しさを発見しました。
『取り替え子』、タイトルを見ただけで手に取ろうと思わないのは、私だけではないはずです。たまたま、その由来というか背景にある昔話を他の作品で目にする機会があり、あ〜、なるほどと少しだけ分かったような気になり、ページをめくろうという気になりました。
読んでみると、通俗的な事象は比較的分かりやすい反面、思想あるいは過去の作品をベースをした箇所については、やっぱり難しい、、というのが率直なところです。ただ、そうはいっても、ぱっと光を帯びているような印象に残るような文章もありました。
「特殊な言葉の孤島」?
小説の中で、ほぼ同年のコメンテーターの言葉でも理解しずらいといった記載があります(文庫版23頁)。それに引続く形で、「自分が、慣れ親しんできた書物によって読み、それによって自分で書きもする、特殊な言葉の孤島に住んでいた」という行があります。そしてその後には、小説家ではあったが、「言葉の大陸に生きる人々とつながってはいなかった」(同24頁)と来ることになるのですが、ここは妙にすっと理解ができました。
「孤島」で使用されていた言語が特殊!というツッコミは十分にわかる気がします(ファンの方、ゴメンなさい)。そうはいっても、テレビの言葉が分からないというのは共感が持てます。そして、孤島⇆大陸という対比ではなく、「小島」が多数存在する現代においては、テレビから他の媒体に移ったとしても、あるいは他の人の集団にふらっと飛び込んだとしても、そこの言葉が分からない→なので分かったふりをするという経験があったことを思い出しました。
「大陸」か「孤島」は気にしない
小説が経験を正しく描写する、あるいは小説で「正しい」言葉を獲得する。思想的にはよく分かりませんが、小説を読む楽しさを再発見しました。ヴェルディの作品で合唱団が登場するシーンで、「人間の声の偉大さをあかしだてて、宇宙の全容に匹敵する音楽構造がそこに実在」(前述文庫214頁)と、この数%でも音楽を聞いた感想など、ブログで表現したいと思いました。
「大陸」と「孤島」の橋の間かもしれませんし、すでに「新大陸」にいるのかもしれませんが(望むべくは)、少しずつ言葉を獲得していきたいと思います。本日も読んでいただき、ありがとうございました。そして言い訳めいておりますが、ラクマに再度、同氏の作品を出品するのは、一読後となりますので、まだまだ先となりそうです(「いいね」してくださった方いらっしゃいましたが、申し訳ございません)。